ひと・宇宙・波動 2
波動は、3次元(あるいは量子レベルを見ればそれ以上)空間に伝わるだけではなく、常に一方向に(過去から未来に)しか進まない時間軸でこれを観測することもできる。むしろ、波動は一地点で見れば何かの可能性が消長することを指すため、周期という時間要素が必ず含まれる。そこで、波動を理解するためには時間の要素が必須になる。
陰陽の繰り返しが波動を構成するが、小さな陰陽の繰り返しが見られるとしても、それだけが波長ではなく、小さな上下動を繰り返しつつ、それが大きなトレンドを形成する、ということがある。小さな上下動は、一種のルーティンであって、そこに気を取られるよりは、大きなトレンドがどこにあるのか、を知ることが重要であろう。
イスラエルとハマスの武力衝突に関し、アメリカの大学では反イスラエルを主張する学生たちの政治運動が活発化している。イスラエルのガザ侵攻を「その部分だけ」とらえれば、それを日常生活を営んでいた多くの家族を犠牲にする極悪卑劣な行為であると見ることは間違ってはいない。しかし、昨年10月のハマスからの大規模攻撃を受けて、これをイスラエル建国時から続くいわゆるパレスチナ問題を大きく動かすためのレバレッジにしようとしているものと見れば、単にイスラエルの攻撃をやめさせるだけでは、問題が拡大再生産されるだけで、むしろ今後の潜在的な被害を大きくするもの、と見る視点も出て来る。
小さな波と大きなトレンド、その両方を見ることで我々はより正確な予測をすることができる。過去の歴史を研究することは必要なことだが、単に年号を記憶するとか、事実関係を羅列することができたとしても、その歴史研究にはそれほどの意味はない。重要なのは、そこからトレンドを読み取って、そのトレンド上にある現在を正確に認識し、これからの予測の精度を高めることである。
未来予測は決して当たらない。個人としての人間に自由が与えられており、社会が多くの個人の集合体である以上、予測できない個人の行動が社会に重大なインパクトを与え、その結果、社会は予測を遥かに逸脱して、これまでのトレンドとはまったく異なる別のトレンドが生み出される、ということが何度も起きるからだ。しかし、これもまた、さらに大きなトレンド上で起こったことであることがわかれば、予測は決して無駄でもないことになる。
ひと・宇宙・波動 1
ひとが何かを完全に知ることはできない。ひとは宇宙の部分として生まれるからである。すべてのひとが部分であるので、どの部分も欠くことのできないピースである。20世紀に判明した量子力学の世界観では、この世界は粒子よりもむしろ波動から成り立つことが知られる。波動は互いに共鳴し、影響し合うので、ひとは宇宙とも共鳴し、影響し合う。
陰陽は中国に起源を持つ思想とされるが、電磁気学でもプラスとマイナスの電荷が想定されるし、量子もまたペアとなる相手を持つ。生物の世界ではそれがもっと顕著で、遺伝子は二重らせんの相手とペアを組んで働くし、ひともいずれかのジェンダーに決定された状態で生まれる。
ミクロな世界では陰陽の関係でダイナミックな変化が起こるが、もう少しマクロな世界で見ると、別の見え方もある。西洋流では気体、液体、個体の三つの相があると分類されるが、そこに含まれないエネルギーが存在するし、熱力学第二法則に反するように見える生命現象もある。古代中国の分類では、相は木火土金水という五行の姿を変転すると見るが、こちらの方が世界の現象を包括的に捉えていよう。
20世紀の特徴は電子および原子核の理解が進み、電子工学、原子力工学が具体的な生活に応用されたことだろう。これはプラスの面としては情報化社会をつくり、マイナスの面としては大量破壊兵器を製造し、多くの犠牲者を出した。21世紀の特徴は量子の理解が進み、工学の世界に進みはじめたことだろう。量子コンピュータはすでにビジネス化される域に到達している。
量子を取り扱うことが従来の3次元技術と異なることは、それがある・ないといった二元論だけで片付かないことである。粒子なら有無ははっきりするが、量子の世界では波動性が強く出るので、存在自体が不確定となり、観察者との「関係」があってようやく有無が決定する。存在は自明だったのではなく、関係が生み出すものであり、関係がなければ存在もない、という新たな世界観に我々は慣れなければいけない。
だが、プトレマイオスの宇宙を信じた中世人たちも、明確な事実を突き付けられてコペルニクスの世界観に転回したように、宇宙は存在よりもむしろ関係によって成り立っている、という新しい価値観も、いずれ我々には普通のこととして受け入れられるようになるだろう。つまり、わたしという存在があったのではなく、わたしと他者あるいは他のものとの関係がすなわちわたしだった、という発想の転換が求められる、ということである。
わたしという「存在」があると思い込んでいたことが、わたしの思慮や判断を狂わせ、結局のところ、世界はあるべき方向に進んで来なかった。すべてはわたしを取り巻く関係だったと思い直すことで、わたしの生き方も変わって来る。わたしが他者や他のものを大切に思う、というその心がわたしを形成するので、そのことでわたしの価値もまた確かになるのである。
スピリチュアル界隈では、新しい時代が来たようなことを語るが、何が新しいのか、それはなかなか説明されない。おそらく彼らに必要なのは、ひとに対する、ものに対する、そして宇宙に対するより科学的、理論的な解明なのではないか、と思う。自分は、スピリチュアル界隈系の方々によくあるような特異な才能を別段持たないので、人間、社会、歴史、科学についての理解を深めることで21世紀に生きる若い方々への参考情報を提供できれば良いなあ、というのが、ここに新たにブログを開設した理由である。誰かの、そして何かのお役に立てば幸いである。